映画『八つ墓村』(1996版)映画はバランスが大事、と言うことか…
繰り返される、落武者の祟りじゃ!
こんな人にオススメ!
- トヨエツ・ヴァージョンの金田一耕助が見たい
- 市川崑監督の『八つ墓村』が見たい
- 原作を読んだ事がある(横溝正史のファンだ)
- 野村芳太郎監督の『八つ墓村』を見た
どんな映画?
横溝正史の原作小説を、1996年に三度目の映画化作品。
この作品を監督した市川崑は、『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』『獄門島』『女王蜂』『病院坂の首縊りの家』と言う傑作を1970年代に発表したが、17年の時を経て、再び横溝文学の傑作に挑んだ意欲作。
松竹が1977年に、野村芳太郎監督、渥美清を得て、恐怖色を強く押し出した作品に仕上げたが、この時は金田一のポジションに賛否が分かれた。
豊川悦司を金田一にした、市川崑、果たしてその出来は!?
▶︎▶︎▶︎ 戦国時代に落武者を殺し、財を得た多治見家だったが、主の要蔵が無理やり妻にした鶴子が姿を消したのをきっかけに、村人を次々と32人も殺し、自身も姿を消した。
多治見家の跡取りとして、鶴子の息子、寺田辰弥が八つ墓村にやって来ると、それが合図のように、連続殺人が幕を開けるのだった……。
見所&解説
見所はズバリ、市川崑の演出だが…
1977年版よりも、今作の方が金田一の出番は、はるかに多い。
前作での金田一は傍観者とまでは言わないが、事件の解決に積極的に関わっていなかった。
今作は、物語の主導権を握るように、渦中に身を置いているのが印象的だ。
市川崑監督の演出は、過去の五作品同様、ミステリーの王道といえる見事な演出だ。
だが、その過去の五作品と何かが違う……。
そう、金田一耕助=石坂浩二ではないのだ。
個人的な意見だが、僕の中では、石坂浩二以外の金田一耕助は、違和感以外の何者でもない。
そして、TVドラマで描かれる金田一耕助は、古谷一行なのだ。
これは僕の脳に深く刻まれているので、どうしようもない事なのです。
それはさて置き、冷静にこの作品を見てみよう。
1977年版は、ミステリー色より、恐怖映画の要素が強かった。
これは原作から分かるように、落ち武者の祟りに始まる一連の殺人は、その祟りを巧妙に使った計画殺人、呪われた血縁関係など、ドロドロとした物語の印象が強いからだ。
野村芳太郎監督は、ミステリーよりも、呪われて、運命を翻弄された人を描いて見せたのだ。
それに対し、今作の市川崑監督は、呪いの比重を下げている。
何に重点を置いたのか? ミステリー?
前5作を見た人なら分かるはずだ。
全ての作品に共通している「愛」なのだ。
だから、結末が全く違ったものになっている。
同じ原作を扱いながら、これほどベクトルが違う作品に仕上がること自体、野村芳太郎、市川崑、二人の凄さが分かるんじゃないだろうか。
ただ、今作の『八つ墓村』はバランスが悪い。
どこが悪いのか、ヒッチ先生に解説してもらいましょう。
ヒッチ先生の【談話室】
俳優の演技や物語の深さ、作品にあった演出やキャラクターの魅力等々、バランス感覚に長けた作品を見る事は、観客として気持ちが良い。
人は気持ちよくなる映画を、何度も見たいと思うようになる。
それが怖い映画でも、悲しい映画でも。
この『八つ墓村』でも、例えばトヨエツが好きなら何度も見るやろうし、横溝正史が好きな人なら映像で見たいと思う人もおる。
でも、この作品は、どう見ても全体のバランスが悪いわ
鍾乳洞のシーンは、広さ、深さ、長さが感じられん。
悲恋を描くには愛情表現が遅すぎる。
金田一は語り部の役をなしてない。
前5作があれだけバランスが取れていたのに、今作のバランスの崩れを見ると、祟りとしか思えんわ
今日はもう終わりや。
もう眠いねん
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